普通が幸せ
先週のこと・・クルマに乗り込もうとした時に、どこをどう捻ったのか左腰を痛めてしまいました
それがやっと治ったと思ったら、今度はどこをどう寝違えたのか、目覚めると右腰が痛くてどうしようもない
起き上がるのも座るのも痛くて、どうせならずっと立っていたいぐらい
ズボンを履くのも脱ぐのもひと苦労で、それをセットでしなきゃいけないトイレは恐怖以外の何物でもありません
「超人的な体力なんていらないから、普通の身体に戻してください!」
日頃お祈りしたこともない神様に「急に自分勝手な」お願いをしても、叶うはずもありません
「無くなって 初めて気付く 当たりまえ・・」
気付くと言えば・・
「手すり」って、ちょうど支えが欲しい場所にちゃんと付いているんですね
トイレや風呂場、廊下や玄関に設置された「手すり」のありがたいこと
普段はまったく気にも留めていなかった「手すり」に感謝すると同時に、身体が不自由な人の生活を考えた住宅設計に感心するばかりです
それと普段通りに身体が動かない(動かせない)だけで、何をするのも嫌になります
着替えるのが面倒、靴を履くのが面倒、歩くのが面倒、クルマに乗るのも面倒、買い物面倒、モノを持つなんてとんでもない!
顔を洗うのが面倒、歯磨きが面倒、トイレが面倒、風呂が面倒、座るのも立つのも面倒って具合で、何をするのも億劫になってくる
足を悪くした母親が、いつも愚痴っている理由がよくわかります(^^;
そしてふっと思ったのが、たぶんどんなにお金を持っていても、どんなに暇があっても、どんなにいいクルマを持っていても、どんなにいい服を揃えていても、身体を悪くしたら楽しくないだろうなぁってこと
たぶんこの腰痛が治れば「普通」の生活に戻って、当たり前のことを当たり前にこなす日々が戻って来るのでしょうが、いまの「普通」が「普通」じゃなくなった時のことも考えることが必要です
健康であること、仕事や収入があること、家族がいること、友人がいること、そして平和で安全な世の中であること
いまの「普通」がどれだけ幸せなことか、そしていまの「普通」が「普通」じゃなくなった時にどうするのかも・・
今般の疫病も、今まで当たり前のように行っていた生活や仕事や勉強が突然できなくなった「腰痛」みたいなものかもしれません
ワクチン接種が進み、新たな治療薬が開発されれば「普通」の生活に戻るのかもしれませんが、またいつか「普通」が「普通」でなくなる出来事が起きるかもしれません
その時のために普段は気づかない「手すり」を、国も自治体も企業も個人も準備することが大事だと思います
そして「当たり前」のことが出来なくなった時に、誰かに不満をぶつけるだけじゃなく、誰かに「何とかしろ!」と言うだけじゃなく、みんながみんなの「手すり」になるように、そして新たな「普通」を出来るだけ幸せに過ごせるように・・
ぜひ、そうなりたいものです
今日の深掘りはここまで