凧あげの歴史
朝のウォーキングをしていると、いつも通る公園で「手作り凧あげ大会」の準備をしていた
「ほ~、手作りの凧あげか~」
子どもの頃、正月に父親が凧を作ってくれたのを思い出す
家にあった竹を鉈(なた)で7~8mmぐらいの幅に切り割り、小刀で薄く削る
縦棒が60cm、横棒が40cm程度だったと思うが、それを十字架のように組んで真ん中を凧糸で固定する
その十字架に合うように障子紙をひし形に切り、テープで竹に貼り付ける
縦棒の上下に凧糸を渡し、新聞紙を切って尻尾にしたら出来上がり!
何とも簡単な凧だが、これが思いのほかちゃんと上がるのだ
空に凧を飛ばすのは、結構わくわくするものだ
その当時のことを母親に聞くと、父親に作ってもらった凧で何日も何日もずっと遊んでいたらしい
いったいどこまで上げることができるのか、見えなくなるほど上げられないか・・
凧糸を長くすると重くなって低く横に伸びるだけなので、父親のリール竿を持ち出して上げたりもした
風の強い日が待ち遠しかったのを思い出す
その後すぐにゲイラカイトという凧が発売された
NASAの元研究員が作ったということも話題になったが、誰でも簡単に、それも高く上がる凧ということで一代ブームになった
その当時は自分も飛ばしてみたいと思ったが、結局のところ買うことはなかった
周りがみんなゲイラカイトばかりになったのと、誰でも簡単に高く上がる凧にやっかみがあったのか、その後は凧に対する興味が急激になくなったような気がする
話しは戻って・・
お正月という童謡にあるとおり、凧あげと言えば正月だろう
なぜ正月に凧あげをするのかというと、これにはいくつかの説があるらしい
立春(新年)に空を見上げると健康になるという言い伝えから、正月に凧を上げるようになったというもの
男の子が生まれて初めて迎える正月に、無事な成長を祈って凧を上げるようになったというもの
この他にもいくつかあるようだが、ちょうどこの時期は強い北風が吹き、凧あげに適していたという季節的な理由もあったようだ
凧の歴史は古く、平安時代に中国から紙鳶(しえん)、紙老鳶(しろうし)と呼ばれる昆虫や鳥、龍や鳳凰を模した凧が伝わったのが最初とされている
以下は凧 - Wikipediaより引用・抜粋
和凧は竹の骨組みに和紙を張った凧で、長方形の角凧の他、六角形の六角凧、奴(やっこ)の形をしている奴凧など、地方ごとに独特な和凧がたくさんある
また14世紀頃から南方系の菱形凧が長崎に持ち込まれ始め、南蛮船の旗の模様から長崎では「ハタ」と呼ばれ盛んに揚げられたそうだ
あの時父が作ってくれた凧は、これがルーツだったわけだ
江戸時代になると「紙鳶」と書いて「いかのぼり」と読むようになり、凧あげは庶民が日常的に遊ぶ娯楽になっていった
尻尾をひらつかせて揚る姿が、イカに似ていたことからそう呼ばれたそうだ
しかし「いかのぼり」を揚げている者同士でケンカになったり、通行の邪魔になったり、大名行列の中に落ちたりといった問題が起きるようになった
大凧が武家屋敷に落ちて大きな損害を与えるような事件まで起きたことから、ついに「いかのぼりあげ禁止令」が出されることになる
しかし庶民は同じ遊びを「イカ揚げ」ではなく「タコ揚げ」だと屁理屈を言って続けたことから、以後は「タコ揚げ」として周知されるようになったという
「ホントかいな?」と思ったら、「タコ」というのは関東の方言だそうで、関西では明治初期まで「イカ」あるいは「イカのぼり」と呼ばれていたらしい
凧あげは明治以降も正月や節句の子供の遊びや祭りの楽しみとして続き、第二次大戦後も冬休みには子供たちが凧揚げをする光景がよく見られた
しかし都市化が進むに連れて広い場所が少なくなったこと、テレビゲームなどの新しい遊びが増えたこと、子供の数自体が減ったことなどがあり、正月の凧揚げも見かけることが少なくなってしまった
凧が風をうまく掴んで、高く揚った時はうれしいものだ
凧の形や糸の張り具合を変えたり、尻尾を長くしたりなど自分なりの工夫をするのも楽しい
風の強さを凧糸で感じながら、大空を見上げるのは爽快だ
「今度親父に習った凧を作ってみようかな・・」
今日の深掘りはここまで